中古トラック クレーンの問題の修正
中古トラック クレーンの問題点は、信頼性と価格のバランスにあります。中古でもあっても、信頼性の高いものと低いものがありますから、良く見極めてください。
日産が、国内メーカーの先頭をきって海外に目を向けた理由として、連戦連敗の国内販売をとりつくろう「目くらまし」だという声があることは前述のとおりである。
しかし結果からみてそのように糾弾されても致し方ない点もあるが、石原以下当時の推進派にしたら大いに反論したいことがあるはずだ。
八〇年代に入り日米自動車貿易摩擦問題が一気に湧き起こった。
この問題に点火したのがマンスフィールド駐日大使であったから、両国の政治問題へと発展するのにはたいして時間を要しなかった。
これで矢面に立たされ、イの一番に困ったのが通産省であろう。
悪いことに一九八〇年という年は、日本の国内自動車生産台数が一一〇〇万台を超え、ついにアメリカのビッグ3の合計台数をも抜いてしまった。
安くて良質な小型車を造らせたらアメリカは日本の足元にも及ばない。
同じ年、日本の国内新車登録台数は五〇一万台である。
残りの六〇〇万台はほぼ輸出に回されたものとみてよい。
当時はダウ平均が二五〇〇ドルそこそこで落日寸前のアメリカ経済ではあったが、それでも北米市場は世界の三分の一以上を吸収する大市場である。
小型車人気が広かったことに加え、アメリカが安全で豊かな市場とくれば日本のメー力1が指をくわえて眺めるはずはない。
よくよく調べると、八〇年には日産だけで史上最高の二六四万四〇〇〇台という生産量を記録している。
その年をピークに日産の国内生産は減産の一途を辿ることになる。
当時業界で生き残れるメーカーはGM、フォード、トヨタと日産、あとはVW、せいぜいこの五社であろうというのが世界でも大方の一致した意見であった。
ルノーなどは問題外とされ、ダイムラー・ベンツですらその他大勢の中へ数えられていたくらいだ。
しかし、誰もがあとになって気がつくのだが、実際には八〇年を最後に「日産の時代」は終わっていたとみてよかろう。
それを言うと石原以下の海外積極推進派は、おそらくこう反論するに違いなかろう。
「日産は国内生産が減ったのではない。
減らしたまでだ。
貿易摩擦の緩和という国策に沿ったのだ。
あの当時、海外での生産をふやそうとしたことの、どこが悪いのか。
リーディングーカンパニーの責任として当然のことではないか」この理屈からいえば通産省が喜んで日産の方策を後押ししたと考えてもおかしくない。
少なくとも通産省が、日産をトヨタよりモノわかりの良い会社だと好感を持っていたことは疑いようもない。
「トヨタが赤字を出しても通産省が面倒みてくれるわけではないんだぞ」のちにトヨタの奥田会長がそう語っているヽ。
なかなか重い腰を上げようとしなかったトヨタに対し、通産省が苦り切った顔をしていたのも事実である。
仮に日産の建て前が国策に沿うものであったとしよう。
元来が官に逆らおうとしない気風である。
政・官・財のどこからも、常に優等生として見てもらいたいような振舞いを、日産の上層部はしたがる傾向がみられた。
それがいけないとは言いきれない。
問題なのは海外進出をはかるにしても、個々のプロジェクトがあまりにも拙速であり、将来ビジョンに欠けていたことであろう。
当時はドーナツ化現象とはいったが、まだグローバル化ということばは一般的ではなかった。
しかし同業の本田には当時からしっかりしたグローバルービジョンがあったと考えられる。
七九年に英・ローバーと提携したことは無意味に終わったが、八二年に米オハイオ州でアコードの本格生産に乗り出しだのを皮切りに、その後の海外事業を見れば本田のゆるぎない将来を見据えた信念がうかがえる。
口さがない人は本田はアメリカ一辺倒だと言う。
現在はそうかもしれないが、欧州ではどのメーカーも四苦八苦している。
北米偏向は長期的には危険だなどと決めつけるのは早すぎる。
アメリカ市場は豊かだし、安全で大らかだ。
本田がやっていることには、なぜかいかにも本田らしいというポンプーフィロソフィのようなものが感じとれる。
それに比べると、同じ国策に沿ったとはいいながら、日産のそれはあまりにも脈絡に欠け、時間がだってみれば「食べちらかしたあと」のように映って仕方がない。
どう見ても石原体制下で推し進められた海外戦略からは、節度や一貫性、グローバルービジョンも企業の哲学らしきものも、なんにも伝わってこなかった。
お茶を濁しているかのように見えて仕方がなかった。
しかしそんな日産も、当時のトヨタよりはずっとマシに見えた。
臆病なのかそれとも腰が重いのか、尻込みをして動こうとしないトップメーカー、トヨタの当時の姿は褒められたものではなかった。
はっきり言ってトヨタは本田や日産の動向を眺め、通産省の顔色をうかがうといった、ずるくて右往左往ばかりしているイメージが強かった。
世界企業となってエクセレントーカンパニーと評価される現在のトヨタからは、とても想像できないほど田舎くさいイメージの会社であった。
それも突きつめていけば「自分の城は自分で守れ」というトヨタ固有の哲学からきているのだろう。
たしかに日産が行き詰った時、トヨタが言うように通産省が特別に手をさしのべてくれたわけでもなんでもない。
「グローバル化の中で業界の再編成や、いろいろな合従連衡があるのは時代の流れだ。
これで日・仏の二大メーカーが列強に名をつらねて行き残れば言うことはない」通産省から日産へ送られたのは言葉のエールだけであった。
官僚体質はゴーンの肌に合わない世間は日産のことを官僚的な会社だとよんできた。
少なくとも自動車業界ではそういう目で見られてきた。
自分の城をより堅牢にするために孜々として働くトヨタに対し、日産は天下国家を論じながら、おっとり構えているふうに見えたこともそうよばれた原因の一つだろう。
そのほかにも製・技・販の縦割りの組織から生じるセクショナリズムが、国益よりも省益を優先する官僚機構の体質と二重写しに見られたのだろう。
どの企業にも大なり小なりそれはあるが、日産はとくにそれが色濃く現れた会社の一つだと言える。
しかし、いったん目をフランスへ転じれば、ルノーの官僚体質はとてもパンパなものではなかった。
日産どころの比ではない。
創業こそ一八九八年という老舗だが、一九四五年、政府は自動車を国の重要な経済基盤と位置づけて同社を国有化、公団組織へと転換した。
これでは官僚体質が蔓延しないほうが不思議であり、気が付いてみれば「全社員、これ公務員」という気風にどっぶりとつかってしまっていた。
日本風に言えば「親方日の丸経営」そのものである。
国営と名のついた企業の競争力がズルズルと衰退の一途を辿るのはなにも日本に限ったことではない。
公団に衣替えして以降のルノーも御多分に洩れず労働コストの上昇に圧迫され、ひいてはそれが労使関係のもつれの原因となる。
経営のスピード感は失われ、時代の潮流にそぐわない品揃えでは業績が上向くわけはない。
八五年には公団の総裁が暗殺される事件まで起こり、人心は乱れ放題でとても日・米・独などの列強と戦っていけるような企業ではなかったのだ。
ルノーが公団から株式会社へと改組されたのは九〇年になってからである。
政府が保有する株式は年を追うごとに放出されているが、それでも今なおルノーの筆頭株主はフランス政府である。
四四・二%というとび抜けた大株主である政府が、ルノーの後ろ盾になっているという筋立てが読めてくる。
日産に六四〇〇億の結納金を持参した背景も、実はそこらにあるのはまぎれもない。
ルノーが赤字の1トンネルから抜け出しだのはわずか数年前である。
民営化に移行したあとも企業体質の健全化は思うように進まなかった。
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同じ年、日本の国内新車登録台数は五〇一万台である。
残りの六〇〇万台はほぼ輸出に回されたものとみてよい。
当時はダウ平均が二五〇〇ドルそこそこで落日寸前のアメリカ経済ではあったが、それでも北米市場は世界の三分の一以上を吸収する大市場である。
小型車人気が広かったことに加え、アメリカが安全で豊かな市場とくれば日本のメー力1が指をくわえて眺めるはずはない。
よくよく調べると、八〇年には日産だけで史上最高の二六四万四〇〇〇台という生産量を記録している。
その年をピークに日産の国内生産は減産の一途を辿ることになる。
当時業界で生き残れるメーカーはGM、フォード、トヨタと日産、あとはVW、せいぜいこの五社であろうというのが世界でも大方の一致した意見であった。
ルノーなどは問題外とされ、ダイムラー・ベンツですらその他大勢の中へ数えられていたくらいだ。
しかし、誰もがあとになって気がつくのだが、実際には八〇年を最後に「日産の時代」は終わっていたとみてよかろう。
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「日産は国内生産が減ったのではない。
減らしたまでだ。
貿易摩擦の緩和という国策に沿ったのだ。
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これでは官僚体質が蔓延しないほうが不思議であり、気が付いてみれば「全社員、これ公務員」という気風にどっぶりとつかってしまっていた。
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政府が保有する株式は年を追うごとに放出されているが、それでも今なおルノーの筆頭株主はフランス政府である。
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日産に六四〇〇億の結納金を持参した背景も、実はそこらにあるのはまぎれもない。
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